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読書メモ:ダニエル・アラルコン『夜、僕らは輪になって歩く』

 ダニエル・アラルコンの『夜、僕らは輪になって歩く』が面白かった。アメリカで主要な文学賞の一つPEN/フォークナー賞の2014年の最終候補に選ばれた作品。

 

概要

 前作『ロスト・シティ・レディオ』に続いて舞台は架空の国である。ただし、訳者あとがきにもあるようにアンデス山脈ケチュア語など作者の出身地であるペルーが想定されていることが前作よりはっきりと分かる。時代は悲惨な内戦が終結した後の21世紀。内戦の記憶を引きずりながらも首都は発展を遂げ、不況から脱出しつつある時代である。

 内戦中に結成された伝説的な劇団「ディシエンブレ」、その劇作家であるヘンリーは演劇『間抜けな大統領』の公演を機にテロリストの容疑で「収集人街」に投獄される。彼は釈放されてからは演劇を離れ、教師とタクシードライバーとして生活を送っていた。しかし、ディシエンブレのメンバーであった友人パタラルガの勧めもあり、再びディシエンブレを立ち上げ、『間抜けな大統領』を再演することに決めた。そして、そのオーディションで大統領の息子役に選ばれた青年ネルソンとともに、再び国中を廻る公演旅行へ出発する。しかし、彼らの人生は小さな嘘をきっかけに大きく変わってゆくことになる……

 物語が始まるとすぐに何か”悲劇的”な出来事がネルソンの上に降りかかったことが示唆される。「果たして彼の身に何が起こったのか?」これがひとつ目の謎である。読み進めていくうちに、一人称で語るメタな「僕」の存在がはっきりと現れてくる。「僕」はネルソンの周囲の人々のインタビューを行い、その証言を通して小劇団「ディシエンブレ」を中心に繰り広げられた過去の状況を明らかにしていく。この「僕」は一体誰なのか?そして何故公演旅行について調べているのかというのが、ふたつ目の謎。

 

 

感想

「僕」が現在の証言から過去のエピソードへ、あるいはその逆へ行ったり来たりとつながっていく展開で、過去と現在を行きつ戻りつしつつ核心に迫っていく手法は前作『ロスト・シティ・レディオ』から引き継がれているし、実際その核心ではなくそこに至るまでの道のりの中に多くの魅力を見出すことになる点も前作から変わらずと言った感じ。『ロスト・シティ・レディオ』でも同様の印象を得たけれど、過去と現在が混在していても全く読みにくさを感じさせないアラルコンの構成力は見事。 

 前作以上に不条理的な傾向が強い気がした。イヨネスコやらベケットやらの名前が出てくるから意図的かもしれない。どの人物も自分だけでなく他人の人生に縛られながら、そして時にはそれを自ら引き受けながら、人生の舞台の上で自身の生を求めてもがき続けてその大きな運命に流されていく。自分の人生と他人の人生が複雑に絡まり合いゆく中で、自分の小さな決断や諦念が途方も無く巨大な運命をそれと分からぬままに前進させてゆくどうしようもなさが辛い。読みながら数多くの「もし…だったら」という選ばれた選択肢とは別の選択肢が去来し続ける。もしネルソンが遠ざかる彼女を追っていたら、彼がロヘリオの役を演じなければ、ヘンリーがロヘリオを演劇に誘わなければ……しかし、別の選択肢を想起させつつもストーリーは無慈悲に進んでいく。友人の死や芸術への失望、恋人との破局……喪失感の中で望んでいた人生を歩むことができない切実な苦しみに胸がつまる。

 本作は基本的には現在の「僕」が証言を集めながら過去に迫っていくのがベースになっている。つまり、 ネルソンのみならず様々な人物に対して他者からの証言を軸にしながら過去を物語っていく。いわゆる「不在の話」にも通じる手法。この手法を取ることによって、否応無く他者の視線に向き合わせれることになる。 自己と他者との間での理解の非対称性やすれ違い、一人の人間が他者によってどう認識されているかというアイデンティティの揺らぎが浮き彫りにされる。他者からの視点を軸にした、時間的な距離を感じさせる懐古的なまざなしで物語が進んでいくため、前作ほどエピソードのその場の感情を瑞々しく描ききれてはいないかもしれない。しかし、イクスタがネルソンと恋に落ちる場面などその印象は随所に現れている。

 他者の視線からエピソードを構成するスタイルは、必ずしも自分が思っていたような振る舞いをしてくれない他者との非対称性を浮き彫りにして、時には非情とも無責任とも思えるような不一致を見せる。彼らの救われない思いと遣る瀬無い気持ちからくる悲哀は作品全体を通して何度も私の胸を突いてきた。

 本作は「演劇」を扱ったものである。しかし、作中では舞台の上での演技だけでなく、日常生活の中で人間が自身あるいは他者を人生の必要な役に仕立てあげようとするために行う「演技」もまた含んでいる。演劇的なモチーフを利用して人々の人生を舞台にみたてながら、その不条理とその中でもがく人々の切実な心情を描き切るアラルコンはすごい。名作です。

 

雑記: 他者の「語り」を奪うことの暴力性

 物語のラスト、マイクとテープレコーダーを持ち込んで獄中のネルソン本人にインタビューを行うつもりでいた「僕」に対して彼は次のように語る。

「 誰が奪ってきたのか、誰が奪われてきたのか、ここではっきりさせておこうじゃないか 」

 冒頭から仄めかされてきたネルソンを襲った運命の謎を追いかけていった先に、この言葉を結末として置くところが政治小説家としてのアラルコンの妙であると思う。ここで、明確な輪郭を与えられることになるのは、語りを奪うことの暴力性だ。しかし、それは正式な調査も行わずに彼を逮捕した警察やネルソンに語らせること無く決着がつけられた不公平な裁判など公権力によるものだけを指すのではない。

 作中で「僕」は雑誌記者として関係者のインタビューを集め、ネルソンの日記などの物証も参考にしながら、ネルソンが辿った軌跡を再構成することで、本当の「ネルソン像」を形成しようと努めている。しかし、それは結局のところ「僕」の認識を通して表象された「ネルソン像」でしかない。ネルソンは「僕」に次のように語る。

「だとしたら、僕がここにいる間に、外にいて僕の物語を語る資格があると信じこんだ人間に対して、僕は何をすると思う?もし僕が暗い通りで男を殺すことができる人間だったとしたら?」

「僕」はネルソンのこの態度を刑務所内で学んだ相手を脅すような演技であると考えるも、しかし少しの当惑を見せる。読んでいた私も一瞬「もしかして…?」と思った。というのも、p.158ではパタラルガとネルソンが残した次のような発言が残されているからだ。

「ネルソンには、何を選んだっていいと言ったよ。街に戻って彼女を取り戻そうと戦ってもいい。勝つかもしれないし負けるかもしれないが、どちらも名誉ある結果だと」

「それでネルソンは何と?」

「自分は闘士じゃないし、闘士だったこともない。だから怖いと。そんなわけがあるかって俺は言った。もちろんお前は闘士だ。それ以上だ。だってお前は人殺しだろう?毎晩舞台で俺を殺してるじゃないか?」

 それを聞くとネルソンは笑った。パタラルガも笑った。

「その通りですよ」とネルソンは言った。「僕は殺し屋だ。みんな気をつけろ。用心した方がいい」

  このあとのネルソンの「きみは平気さ」という発言を見ると「僕」への脅しは演技だったと思われるが、ここで演技と現実あるいは虚と実の間の境界が一瞬揺らぐ。語られてきたネルソンが「僕」によって作り上げられた「ネルソン像」に過ぎないことが浮き彫りになる。

 また、ネルソンがもしハイネのような人間、つまりはネルソンが仄めかしたようなことをしでかす人間だった場合、僕は果たして彼についての物語を書こうと思うだろうか。「僕」はネルソンの人間性をあてにして、「彼なら大丈夫だろう」と高を括って話を聞きに行ったのではないだろうか。つまり、彼であればその「語り」を奪ってしまってもいいだろうと……

 おそらく、これは小説家としてのアラルコン自身の経験が反映されているのではないだろうか。小説家は自身では声を挙げられない人々の声を代弁することができる。しかし、それは一方では他者から「語り」を奪う行為でもあるために種の暴力性をはらむ。彼らの語りを横取りし、彼らをゼロと化すことによって二重の沈黙を強いる危険さえある。そして、小説家がどれだけ「声を奪われた者たち」の声を代弁しようとしても、それはあくまでも表象に過ぎない。アラルコンはここで、雑誌記者として問題の外から観察する「僕」の存在を通して無意識的に行われる「語り」の搾取を批判し、また「分かったつもりにさせる」ポートレートで実像を曇らせる一部のジャーナリズムを批判している。

 その後、アラルコンはネルソンとの最後の会話を通して「僕」を渦中に引きずり込むことによって外部の観察者として存在することを否定するとともに、「僕」に当事者性を与えている。傍観者の気分でいることは、当事者として事件に関わっていくよりも安全である。ヘンリーとロヘリオが 獄中で蹴り殺される囚人を眺めていた時のように。物語は、サークルの外から部外者として物語を紡ごうとしていた「僕」に当事者としてもっと別の聞き取るべき声を探させることにより、「僕」をサークルの渦中に取り込む場面で終わる。

 

夜、僕らは輪になって歩く (新潮クレスト・ブックス)

夜、僕らは輪になって歩く (新潮クレスト・ブックス)

 

 

ロスト・シティ・レディオ (新潮クレスト・ブックス)

ロスト・シティ・レディオ (新潮クレスト・ブックス)

 

 

 

読書メモ:藤野可織『爪と目』

藤野可織『爪と目』を読んだ。

三歳児の「わたし」が、父、喪った母、継母をとりまく不穏な関係を語る、純文学的ホラー。

あるとき、母が死んだ。そして父は、あなたに再婚を申し出た。あなたはコンタクトレンズで目に傷をつくり訪れた眼科で父と出会ったのだ。わたしはあなたの目をこじあけて――三歳児の「わたし」が、父、喪った母、父の再婚相手をとりまく不穏な関係を語る。母はなぜ死に、継母はどういった運命を辿るのか……。独自の視点へのアプローチで、読み手を戦慄させるホラー。芥川賞受賞作。

 

 表題作「爪と目」がやはり際立って面白い。

 「爪と目」は「わたし」によって語られる二人称小説。「父」と亡き母の間の娘である「わたし」の語りを通して、「父」と不倫していた「あなた」の生活を淡々と記述している。ただ、この「わたし」は「あなた」や「父」がどう考えていたとか誰と不倫関係にあったとか、本来知り得ないところまで語っている、いわば神の視点の持ち主。

 「わたし」が誰かというのは作中で「父はもちろん、彼の一人娘のはなしを、わたしのはなしをしているのだった」と書かれていることから明らかで、その後のベランダの一件の際の記述を見ると、この物語が過去の話で、未来のある一点から語られているのも分かる。では、一人称で語る「わたし」が何故これほどまでに透徹した語りができるのだろうか……?私はわからなかったので誰かおしえてください。そもそも、そこまで物語の中に組まれているのかどうかも察せないくらいには理解できない。これがうまく設計されているのか否かで作品の評価が随分変わってくると思うのだけど……「わたし」には死んだ母の視点も混じっているという意見があったけど、いまいちピンとこない。

 ただまあ、この視点によってどこか突き放したような印象がうまく与えられているし、「あなた」の無関心さや表皮上滑りな思考が強調されているようにも感じる。これは本来的に語らせたい人物の自意識から逃れ出る方法としては適しているのかもしれない。

 

 で、読んでいて腑に落ちないところがいくつかあったんだけど、結局のところ「爪と目」とは、ずっと目をつぶり、ひどいことを見ないようにして、他人を省みることなく、自分だけが傷つくことのないように生きてきた「あなた」が視力を奪われ、ついには何も見えなくなって他人の助けなしには生活していくことができなくなってしまう因果応報劇なんじゃなかろうか。実際には、マニキュアを入れられた「あなた」のその後については語られないため、「あなた」の視力が奪われてしまったのかどうかは分からない 。唯一その後にふれているのは、「わたし」がベランダに押し出されたくだりである。

 「わたし」をベランダから部屋の中に入れたとき、「あなた」はあの独裁国家の小説の言葉をかける。

「えっとね、いいこと教えてあげる。見ないようにすればいいの、やってごらん、ちょっと目をつぶればいいの、きっとできるから、ほら、やってごらん」

 彼女はベランダの一件の「だいぶあと」になってその小説を読み、「さらにあと」にこの「とっておき」の言葉をかけることになる。ここから、少なくとも「わたし」は随分と成長してからもまだこの時の怒りと痛みを覚えており、彼女に対して意図的にこの台詞を吐くことが明らかになる。しかし、謎なのはこの言葉が発せられたシチュエーションだろう。同じくらいの身長になった「わたし」の二の腕を掴んでいる「あなた」が見上げている―この状況は一体何なのだろうか。

 話を戻すが、最後に出てくる自転車の四人乗りで事故を起こしたエピソード、あれには一体どんな意味があるのだろうか。「あなた」以外の三人は全てひどい傷を負ってしまったが、「あなた」だけはこの事故の中で彼氏を板代わりにして深刻な事態を免れることになった。その後のパラグラフで時制は現在へ帰るが、そこで「あなた」は両目の傷に関して、両目が傷ついているのを自覚してはいるが、こんなふうに傷つけられた経験は初めてだと内省する。彼女はここで痛みの感覚を呼び起こされる、傷つけられる感覚を。「あなた」はこれまで他者を傷つけながら、彼らが傷つく中で生かされてきた。コンタクトレンズという補正器具は自身を支える他者のメタファーなのかもしれない。しかし、「あなた」はそのことに無自覚だった。「あなた」の母親の台詞が思い出される。

「あんたはいつも他人事みたいに。そうやって、いつも自分だけ傷つかないのよね」

その自覚がマニキュアによる痛みとともに、最期に襲いかかってくることになる。ここで「あなた」が自覚することになるのは眼球を傷つけられる肉体的な痛みとともに、もしかすると常に彼女とともにあった視覚を喪失する痛みでもあるのかもしれない。

 さらに、仮にこの「わたし」が物語中で終始「父」の息子である「わたし」として一貫しているのならば、この因果応報劇はそこで終わらない。

あなたが過ごしてきた時間とこれからあなたが過ごすであろう時間が、一枚のガラス板となってあなたの体を腰からまっぷたつに切断しようとしていた

今、その同じガラス板が、わたしのすぐ近くまでやってきているのが見えている。わたしは目がいいから、もっとずっと遠くにあるときからその輝きが見えていた。わたしとあなたがちがうのは、そこだけだ。あとはだいたい、おなじ。

 「わたし」はなぜここまで「あなた」の気持ちを再構成することができていたのか。その謎を解くヒントがここにあるのかもしれない。それは「わたし」と「あなた」は目がいいこと以外には、だいたい同じだからだ。そして、「わたし」は今ここで、「あなた」と同じように応報を受けようとしている。「あなた」にとってのガラス板とは「わたし」であり、無関心であり、ぎざぎざの爪であるだろう。では、「わたし」にとってのガラス板は一体何なのだろうか。繰り返される不摂生がそれなのだろうか。それは明らかではない。だが、少なくとも「わたし」は目がよかった。つまりその結末に対してはいくらか自覚的であったのだ。けれども、「わたし」も結局は「あなた」のように目を閉じて現実を見ないようにして破局を迎えることになるのだろう。

 

 

 と、ここまで書いてからちょっと閃いたことがある。最近ダニエル・アラルコンの『夜、僕らは輪になって歩く』を読んだ時にも考えたことなんだけど、こういう語り手が本来知り得ないことを知っているかのごとく語る小説では、本来語りえないところを語ってる箇所に関して読者は当然「それって本当なのか?」と思うわけ。だって、語ってる本人はそれを知らないはずだから。要するに、語りえない部分を扱う地の文の内容を小説的事実とみなすことに対する疑いが生じてくる。しかも、「爪と目」においては全てが「わたし」を通して語られている。もし、本当に「わたし」が全てについて語っていると仮定すると、知り得ない部分に関しては嘘をついているとみなさざるをえなくなる。

 時に、歴史的事実について考えてみる。過去のある出来事一つをとってしても、それが我々のいる現在に届くまでに、その出来事を直接記述した人物やそれを考証する歴史家の頭で屈折している。そこには各人の生い立ちや境遇、思想も多分に影響していて、一般に思い描かれているほど純粋な「事実」というのが存在しなかったりする。それは歪んだガラス越しにものを見ているようなものだ。例えば日常でも、A氏が話したB氏の人物像がC氏の思い描くB氏の人物像と一致するとは必ずしも言えなかったりする。

 「爪と目」においても、全ては「わたし」という当事者の頭を屈折してわたしたち読者に届けられている。とすると、もしかしたらこの「あなた」や「父」のエピソードは実は虚構が含まれた、「わたし」に都合のいいように再構成された物語になっているのではないだろうか。では、なぜ「わたし」はそんな虚構まじりの「あなた」を語ろうとしていたのか。それは、「わたし」が破滅するのは自分のせいではないと自分に言い聞かせるためではないだろうか。

 と、ここまで書いてみるとやっぱり説得力に欠ける……作中からそう考えられる箇所を探すこともできないし、最後の数行を見ても自分に言い聞かせるって感じではないし。何より虚構でした!は受け入れられない気もするし……難しい。

 

追記:

 佐々木敦『あなたは今、この文章を読んでいる。―パラフィクションの誕生』に『爪と目』の人称の処理の謎とその理由についての考察がちょろっと書かれているんですが、その二番目の解決策がかなり盲点で「えーっ!」となったので気になった方はぜひ手にとってみてください。最後の「わたしとあなたがちがうのは、そこだけだ。あとはだいたい、おなじ」というフレーズの解消の仕方としてはこの解決策が一番スマートな気がしました。

 

 

爪と目 (新潮文庫)

爪と目 (新潮文庫)

 

 

ギルガメシュ叙事詩の新たな写本が発見されたとのこと

 『ギルガメシュ叙事詩』に関する新しい粘土板文書が発見され、標準版ギルガメシュ叙事詩の第5の書板のかつては知られていなかった部分が明らかになったとのことです。*1新たな粘土板を加えて改訂再構成した結果、第5の書板は以前よりも約20行ほど長いテキストになったそうです。

 

新たな粘土板の発見

 2011年、イラク北東部のクルディスタン地域にあるスレイマニヤ博物館が考古学的遺物を密輸業者から買い取りました。80~90枚の粘土板文書が購入され、その中に今回の『ギルガメシュ叙事詩』の写本が含まれていました。ロンドン大学のSchool of Oriental and African Studies (SOAS)に所属するFarouk Al-Rawi教授と同僚のAndrew R. George教授によって翻訳がなされ、2014年に"Back to the Ceder Forest: The beginning and end of Tablet Ⅴ of the Standard Babylonian Epic of Gilgameš "の題でSOASから発表されています。

 

 粘土板の特徴

 現在、粘土板はイラクスレイマニヤ博物館に展示されています。大きさは11cm(h)×9.5cm(w)×3(t)。合計6つの欄を持つ粘土板の左半分の断片であることが明らかになりました。

 この粘土板がどこで発掘されたのかは明らかではありません。おそらく、南メソポタミアの遺跡から盗掘されたものだろうと考えられています。また、その製造年に関しては、スレイマニヤ博物館のキャプションでは古バビロニア時代のものだと記述してある一方で、Al-Rawi教授とGeorge教授の論文では、これは新バビロニアの書記によって記されたと考えられているようです。*2

 表面(コラム1-2)は既知の新アッシリア時代の断片MSS H、AA、DDの写しになっています。*3今回の粘土板の発見によって、これらの既知の粘土板を並べる順序が従来考えられていた通りであったことが明らかになり*4、そしてその断片の間に生じていた空白を埋めることが出来ました。また、"izzizūma inaqqātu qišta"の書き出しで始まる改訂本がアッシリアのみならずバビロニアにおいても同様に存在していたことを示すことにもなりました。

 裏面(コラム5-6)はウルク出土の"Humbāba pâšu īpušma iqabbi izakkara ana Gilgāmeš"の書き出しで始まる後期バビロニア時代の粘土板MS ddの裏面(コラム4-5)の写しになっています。

 粘土板の内容は論文のタイトルにあるように、『標準版ギルガメシュ叙事詩』の第5の書板の始まりと終わりの部分にあたるものでした。第5の書板はギルガメシュとエンキドゥが香柏の森へ到着する場面から、フンババとの戦闘を経た後に伐採した香柏を筏にしてニップルへ流す場面までが含まれます。

 

ポイント

1. 香柏の森(Ceder Forest)の様相

 論文によると、最も興味深いポイントはフンババが住む香柏の森の描写であるようです。過去に発見された粘土板にも香柏の森の様相はわずかに記されていましたが、今回の粘土板の発見によって、そこが多種多様な動物の鳴き声に満ちたジャングルの様相を呈していたことが明らかになりました。ただし、この点に関して論文の筆者は「バビロニアの文学的想像においては」と記すことで注意を喚起しています。

 まず、ギルガメシュとエンキドゥは、レバノン杉がうっそうと茂り、その樹液を雨のように滴り落とす様子を目の当たりにします。レバノン杉はギルガメシュが暮らす南メソポタミアでは確保できない良質な建材であり、またその樹液も貴重な香料として用いられていました。メソポタミアにおけるこれらの資源の価値をふまえた上で、伝説的な土地に魅惑的で高価な資源が溢れている、という一般的な文学的モチーフが用いられているようです。*5

 さらに、そこには多種多様な動物が住んでいました。猿の甲高い鳴き声、セミの合唱、様々な種類の鳥の鳴き声がまじりあって森を騒がしい雰囲気に仕立て上げ、そうしたリズムが「楽士と太鼓奏者の[バンドにように]」、日々フンババを楽しませていました。ここにおいて、フンババは未開地に住む怪物として現れるのではなく、バビロニアの王たちが宮廷で楽しんでいたのと同じような方法で、彼らよりも野性味あふれる音楽を楽しむ異国の統治者として登場するのです。*6

 

2. フンババ討伐後のエンキドゥとギルガメシュの会話

 新たな粘土板写本では、フンババ討伐後のギルガメシュとエンキドゥの会話が状態良く保存されていました

 フンババと合う前から、ギルガメシュたちは杉を切り倒しフンババを打ち倒す彼らの行為が神々の怒り、特に神々の最高位エンリル神の怒りを買うことは知っていました。というのも、フンババはエンリル神が香柏の森を守るために置いた召使いだったからです。その召使いを殺し、森を伐採するとなれば、その逆鱗に触れることは必定です。

 そして、新たな粘土板ではいざフンババを討伐して森を伐採する状況に立たされたエンキドゥがその行為への罪悪感や後悔ともとれる言葉をこぼしていたことが明らかになりました。戦闘中には、命乞いをするフンババを前にしたギルガメシュに向かって「エンリル神がそれを知る前に彼を殺せ」と気を吐いていたエンキドゥですが、その後は「友よ、我々は森を荒地[へ]減少させた。我々はニップルのエンリル神にどう答えるべきだろうか?」と神々に背く行為への不安を述べているのです*7

 現代的な環境破壊への反省を安易に古代の詩に見出すことは非常に危険ですが、現代に生きる一読者としては身につまされる話として読むことができるのではないでしょうか。

 ちなみに、フンババが幼いエンキドゥと面識を持っていた可能性に関しては、Al-RawiとGeorgeは61~72行目―粘土板の破損が激しい箇所ですが―がこれを裏付けると予想しています。この関係性については、新しい粘土板が発見される以前から別の写本MS dd I 5 によって知られていたようです。*8 twitter等では「エンキドゥとフンババが友人関係であったことが新たに明らかになった」という旨でニュースが拡散されていますが、今回の発見のセンセーショナルの部分はこの箇所ではなく、また「友人」関係であったと言い切れるかどうかも不明です(私見では友人関係と見るのは難しい気もしますが……)。論文内では” Enkidu had spent time with Ḫ umbaba in his youth”と書かれています。

 MS dd I 5の該当箇所はA. R. Georgeが2003年に出版した”The Babylonian Gilgamesh Epic: Introduction, Critical Edition and Cuneiform Texts. 2 vols.”のpp. 606-607にアッカド語と英訳が載っています。*9この英訳の一部を日本語訳すると、(アッカド語から訳したわけでもなく、英訳にも自信が無いので誤訳があるかもしれません)

85: フンババは口を開き、話した ギルガメシュに言う

86: 「愚かなギルガメシュよ、馬鹿な仲間の忠告に従え!なぜお前は私の前にやってきたのか?

87: 来い、エンキドゥよ 稚魚、父を知らぬものよ

88: 陸亀と海亀の子供よ、母の乳を吸わなかった者よ

89: お前が幼い時に私はお前を見た しかし私はお前の近くへ行こうとはしなかった

90: …お前、私の腹に(あるいは、私の心に)…

91: [なぜ、裏切って]お前はギルガメシュを私の前に連れてきたのか?

92: そして、なぜお前はここで敵のように立っているのか?

 

となっています。*10確かに、面識を感じさせるようにも思えます。他にも、森への出立前からエンキドゥはフンババの恐ろしさを知っていて、それをギルガメシュウルクの長老達に向かって説いていますし、またウルクの長老たちは「彼(エンキドゥ)は香柏の森に通じる行路を知っている」という発言をしています。これらの箇所もエンキドゥとフンババの関係を示しているのかもしれません。

 論文の筆者はさらに「彼の領地への侵入者に気付いたフンババは、エンキドゥが家に帰ってきたに違いないと推測しているように思える。ひょっとすると、来たるべき再開の期待により興奮さえしていたととれるかもしれない。もしこれらの断片的な個所を彼らが共に過ごした過去との関連として読み取ることが正しいなら、その時、敵であるギルガメシュを連れてきたエンキドゥによるフンババへの背信行為はより一層強烈なものになる」と推測しています。*11

 

終わりに

 今回の内容に興味を持たれた方はぜひ元の論文をご覧になってください。SOASのサイトからpdfでダウンロードが可能です。論文には今回発見された書板のアッカド語訳と英訳も載っています。

 なお、私は確認していませんが、今回の発見については東洋英和女学院大学の『死生学年報2016』に研究者である渡辺和子氏が「『ギルガメシュ叙事詩』の新文書ーフンババの森と人間」という題で研究ノートを書いているようなので、より正確な情報を知りたい方にはこちらをオススメします。

 

 今回の発見により『ギルガメシュ叙事詩』に存在する虫食いの一部が満たされることになりました。空白箇所は未だ多いとはいえ、いつの日か完全な状態の『標準版ギルガメシュ叙事詩』を読むことができるようになるかもしれません。現在から三千年以上前の時代に読まれていた作品を、今でもこうして読むことができることはかなり凄いことではないでしょうか。『ギルガメシュ叙事詩』は生と死や友情を描く物語であり、今なおその輝きは失っていません。今回の発見で『ギルガメシュ叙事詩』に興味を持たれた方はぜひ御一読ください。

 ちくま学芸文庫から出版されている矢島文夫訳が比較的入手しやすいと思われます。岩波書店から出版されている月本昭男訳の『ギルガメシュ叙事詩』にはアッカド語以外に翻訳された他言語版も収録され、叙事詩の物語技法や構造などへの解説も付されている研究書でおすすめだったのですが、手を出しにくい価格なうえに現在では絶版になっているようです。 (追記:来年あたり月本訳の『ギルガメシュ叙事詩』が文庫化されるかも…みたいな話もあるそうなので高くて手が出せない方は少し待ってみるといいかもしれません) 

 いずれにせよ、ギルガメシュ叙事詩はまだまだ発見されていない箇所が多いために、大抵の訳文は穴だらけになっています。ぷねうま舎から出版されている『ギルガメシュ王の物語 ラピスラズリ版』は現代の読者が読みやすいように、独自の編集がなされているそうなので、興味のある方は矢島訳とこちらを読み比べて読みやすい方を購入してみるのがいいかもしれません。

 

 参考記事

http://etc.ancient.eu/2015/09/24/giglamesh-enkidu-humbaba-cedar-forest-newest-discovered-tablet-v-epic/

http://www.livescience.com/52372-new-tablet-gilgamesh-epic.html

 参考文献

・F. N. H. Al-Rawi and A. R. George (2014) "Back to the Ceder Forest: The beginning and end of Tablet Ⅴ of the Standard Babylonian Epic of Gilgameš"

・月本昭男 (1996) ギルガメシュ叙事詩岩波書店

 

 

ギルガメシュ叙事詩

ギルガメシュ叙事詩

 

 

 

ギルガメシュ叙事詩 (ちくま学芸文庫)

ギルガメシュ叙事詩 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

ギルガメシュ王の物語 ラピス・ラズリ版

ギルガメシュ王の物語 ラピス・ラズリ版

 

 

The Epic of Gilgamesh (Penguin Classics)

The Epic of Gilgamesh (Penguin Classics)

 

 

*1:標準版は新アッシリア時代に増補改訂され最終的な形をとったものを指します。『ギルガメシュ叙事詩』はシュメル語の伝承をもとに古バビロニア時代に成立し、中期バビロニア時代を経て新アッシリア時代に完成しました。また、フリ語やヒッタイト語など他言語に翻訳されたものも存在しています。

*2:http://etc.ancient.eu/2015/09/24/giglamesh-enkidu-humbaba-cedar-forest-newest-discovered-tablet-v-epic/

*3:粘土板の記号は元論文に従っています。

*4:バラバラになって発見されるために、該当箇所を記した他の写本が存在しない場合にはその並び順ですらはっきりとはしないのです

*5:F. N. H. Al-Rawi and A. R. George 2014, p. 72

*6:F. N. H. Al-Rawi and A. R. George 2014, p. 74 

*7:F. N. H. Al-Rawi and A. R. George 2014, p. 83

*8:F. N. H. Al-Rawi and A. R. George 2014, p. 74

*9:SOASのサイトからpdfをダウンロードすることができます http://eprints.soas.ac.uk/1603/

*10:A. R. George 2003, The Babylonian Gilgamesh Epic: Introduction, Critical Edition and Cuneiform Texts. 2 vols., pp. 606-607

ちなみに、月本訳では「お前が幼い時」が「お前はこわっぱだから」と訳されていたりもします。同じアッカド語から訳していても、研究者によって解釈が異なっていたりします。

*11:F. N. H. Al-Rawi and A. R. George 2014, p. 74