読書メモ:藤野可織『爪と目』

藤野可織『爪と目』を読んだ。

三歳児の「わたし」が、父、喪った母、継母をとりまく不穏な関係を語る、純文学的ホラー。

あるとき、母が死んだ。そして父は、あなたに再婚を申し出た。あなたはコンタクトレンズで目に傷をつくり訪れた眼科で父と出会ったのだ。わたしはあなたの目をこじあけて――三歳児の「わたし」が、父、喪った母、父の再婚相手をとりまく不穏な関係を語る。母はなぜ死に、継母はどういった運命を辿るのか……。独自の視点へのアプローチで、読み手を戦慄させるホラー。芥川賞受賞作。

 

 表題作「爪と目」がやはり際立って面白い。

 「爪と目」は「わたし」によって語られる二人称小説。「父」と亡き母の間の娘である「わたし」の語りを通して、「父」と不倫していた「あなた」の生活を淡々と記述している。ただ、この「わたし」は「あなた」や「父」がどう考えていたとか誰と不倫関係にあったとか、本来知り得ないところまで語っている、いわば神の視点の持ち主。

 「わたし」が誰かというのは作中で「父はもちろん、彼の一人娘のはなしを、わたしのはなしをしているのだった」と書かれていることから明らかで、その後のベランダの一件の際の記述を見ると、この物語が過去の話で、未来のある一点から語られているのも分かる。では、一人称で語る「わたし」が何故これほどまでに透徹した語りができるのだろうか……?私はわからなかったので誰かおしえてください。そもそも、そこまで物語の中に組まれているのかどうかも察せないくらいには理解できない。これがうまく設計されているのか否かで作品の評価が随分変わってくると思うのだけど……「わたし」には死んだ母の視点も混じっているという意見があったけど、いまいちピンとこない。

 ただまあ、この視点によってどこか突き放したような印象がうまく与えられているし、「あなた」の無関心さや表皮上滑りな思考が強調されているようにも感じる。これは本来的に語らせたい人物の自意識から逃れ出る方法としては適しているのかもしれない。

 

 で、読んでいて腑に落ちないところがいくつかあったんだけど、結局のところ「爪と目」とは、ずっと目をつぶり、ひどいことを見ないようにして、他人を省みることなく、自分だけが傷つくことのないように生きてきた「あなた」が視力を奪われ、ついには何も見えなくなって他人の助けなしには生活していくことができなくなってしまう因果応報劇なんじゃなかろうか。実際には、マニキュアを入れられた「あなた」のその後については語られないため、「あなた」の視力が奪われてしまったのかどうかは分からない 。唯一その後にふれているのは、「わたし」がベランダに押し出されたくだりである。

 「わたし」をベランダから部屋の中に入れたとき、「あなた」はあの独裁国家の小説の言葉をかける。

「えっとね、いいこと教えてあげる。見ないようにすればいいの、やってごらん、ちょっと目をつぶればいいの、きっとできるから、ほら、やってごらん」

 彼女はベランダの一件の「だいぶあと」になってその小説を読み、「さらにあと」にこの「とっておき」の言葉をかけることになる。ここから、少なくとも「わたし」は随分と成長してからもまだこの時の怒りと痛みを覚えており、彼女に対して意図的にこの台詞を吐くことが明らかになる。しかし、謎なのはこの言葉が発せられたシチュエーションだろう。同じくらいの身長になった「わたし」の二の腕を掴んでいる「あなた」が見上げている―この状況は一体何なのだろうか。

 話を戻すが、最後に出てくる自転車の四人乗りで事故を起こしたエピソード、あれには一体どんな意味があるのだろうか。「あなた」以外の三人は全てひどい傷を負ってしまったが、「あなた」だけはこの事故の中で彼氏を板代わりにして深刻な事態を免れることになった。その後のパラグラフで時制は現在へ帰るが、そこで「あなた」は両目の傷に関して、両目が傷ついているのを自覚してはいるが、こんなふうに傷つけられた経験は初めてだと内省する。彼女はここで痛みの感覚を呼び起こされる、傷つけられる感覚を。「あなた」はこれまで他者を傷つけながら、彼らが傷つく中で生かされてきた。コンタクトレンズという補正器具は自身を支える他者のメタファーなのかもしれない。しかし、「あなた」はそのことに無自覚だった。「あなた」の母親の台詞が思い出される。

「あんたはいつも他人事みたいに。そうやって、いつも自分だけ傷つかないのよね」

その自覚がマニキュアによる痛みとともに、最期に襲いかかってくることになる。ここで「あなた」が自覚することになるのは眼球を傷つけられる肉体的な痛みとともに、もしかすると常に彼女とともにあった視覚を喪失する痛みでもあるのかもしれない。

 さらに、仮にこの「わたし」が物語中で終始「父」の息子である「わたし」として一貫しているのならば、この因果応報劇はそこで終わらない。

あなたが過ごしてきた時間とこれからあなたが過ごすであろう時間が、一枚のガラス板となってあなたの体を腰からまっぷたつに切断しようとしていた

今、その同じガラス板が、わたしのすぐ近くまでやってきているのが見えている。わたしは目がいいから、もっとずっと遠くにあるときからその輝きが見えていた。わたしとあなたがちがうのは、そこだけだ。あとはだいたい、おなじ。

 「わたし」はなぜここまで「あなた」の気持ちを再構成することができていたのか。その謎を解くヒントがここにあるのかもしれない。それは「わたし」と「あなた」は目がいいこと以外には、だいたい同じだからだ。そして、「わたし」は今ここで、「あなた」と同じように応報を受けようとしている。「あなた」にとってのガラス板とは「わたし」であり、無関心であり、ぎざぎざの爪であるだろう。では、「わたし」にとってのガラス板は一体何なのだろうか。繰り返される不摂生がそれなのだろうか。それは明らかではない。だが、少なくとも「わたし」は目がよかった。つまりその結末に対してはいくらか自覚的であったのだ。けれども、「わたし」も結局は「あなた」のように目を閉じて現実を見ないようにして破局を迎えることになるのだろう。

 

 

 と、ここまで書いてからちょっと閃いたことがある。最近ダニエル・アラルコンの『夜、僕らは輪になって歩く』を読んだ時にも考えたことなんだけど、こういう語り手が本来知り得ないことを知っているかのごとく語る小説では、本来語りえないところを語ってる箇所に関して読者は当然「それって本当なのか?」と思うわけ。だって、語ってる本人はそれを知らないはずだから。要するに、語りえない部分を扱う地の文の内容を小説的事実とみなすことに対する疑いが生じてくる。しかも、「爪と目」においては全てが「わたし」を通して語られている。もし、本当に「わたし」が全てについて語っていると仮定すると、知り得ない部分に関しては嘘をついているとみなさざるをえなくなる。

 時に、歴史的事実について考えてみる。過去のある出来事一つをとってしても、それが我々のいる現在に届くまでに、その出来事を直接記述した人物やそれを考証する歴史家の頭で屈折している。そこには各人の生い立ちや境遇、思想も多分に影響していて、一般に思い描かれているほど純粋な「事実」というのが存在しなかったりする。それは歪んだガラス越しにものを見ているようなものだ。例えば日常でも、A氏が話したB氏の人物像がC氏の思い描くB氏の人物像と一致するとは必ずしも言えなかったりする。

 「爪と目」においても、全ては「わたし」という当事者の頭を屈折してわたしたち読者に届けられている。とすると、もしかしたらこの「あなた」や「父」のエピソードは実は虚構が含まれた、「わたし」に都合のいいように再構成された物語になっているのではないだろうか。では、なぜ「わたし」はそんな虚構まじりの「あなた」を語ろうとしていたのか。それは、「わたし」が破滅するのは自分のせいではないと自分に言い聞かせるためではないだろうか。

 と、ここまで書いてみるとやっぱり説得力に欠ける……作中からそう考えられる箇所を探すこともできないし、最後の数行を見ても自分に言い聞かせるって感じではないし。何より虚構でした!は受け入れられない気もするし……難しい。

 

追記:

 佐々木敦『あなたは今、この文章を読んでいる。―パラフィクションの誕生』に『爪と目』の人称の処理の謎とその理由についての考察がちょろっと書かれているんですが、その二番目の解決策がかなり盲点で「えーっ!」となったので気になった方はぜひ手にとってみてください。最後の「わたしとあなたがちがうのは、そこだけだ。あとはだいたい、おなじ」というフレーズの解消の仕方としてはこの解決策が一番スマートな気がしました。

 

 

爪と目 (新潮文庫)

爪と目 (新潮文庫)