読書メモ:ダニエル・アラルコン『夜、僕らは輪になって歩く』

 ダニエル・アラルコンの『夜、僕らは輪になって歩く』が面白かった。アメリカで主要な文学賞の一つPEN/フォークナー賞の2014年の最終候補に選ばれた作品。

 

概要

 前作『ロスト・シティ・レディオ』に続いて舞台は架空の国である。ただし、訳者あとがきにもあるようにアンデス山脈ケチュア語など作者の出身地であるペルーが想定されていることが前作よりはっきりと分かる。時代は悲惨な内戦が終結した後の21世紀。内戦の記憶を引きずりながらも首都は発展を遂げ、不況から脱出しつつある時代である。

 内戦中に結成された伝説的な劇団「ディシエンブレ」、その劇作家であるヘンリーは演劇『間抜けな大統領』の公演を機にテロリストの容疑で「収集人街」に投獄される。彼は釈放されてからは演劇を離れ、教師とタクシードライバーとして生活を送っていた。しかし、ディシエンブレのメンバーであった友人パタラルガの勧めもあり、再びディシエンブレを立ち上げ、『間抜けな大統領』を再演することに決めた。そして、そのオーディションで大統領の息子役に選ばれた青年ネルソンとともに、再び国中を廻る公演旅行へ出発する。しかし、彼らの人生は小さな嘘をきっかけに大きく変わってゆくことになる……

 物語が始まるとすぐに何か”悲劇的”な出来事がネルソンの上に降りかかったことが示唆される。「果たして彼の身に何が起こったのか?」これがひとつ目の謎である。読み進めていくうちに、一人称で語るメタな「僕」の存在がはっきりと現れてくる。「僕」はネルソンの周囲の人々のインタビューを行い、その証言を通して小劇団「ディシエンブレ」を中心に繰り広げられた過去の状況を明らかにしていく。この「僕」は一体誰なのか?そして何故公演旅行について調べているのかというのが、ふたつ目の謎。

 

 

感想

「僕」が現在の証言から過去のエピソードへ、あるいはその逆へ行ったり来たりとつながっていく展開で、過去と現在を行きつ戻りつしつつ核心に迫っていく手法は前作『ロスト・シティ・レディオ』から引き継がれているし、実際その核心ではなくそこに至るまでの道のりの中に多くの魅力を見出すことになる点も前作から変わらずと言った感じ。『ロスト・シティ・レディオ』でも同様の印象を得たけれど、過去と現在が混在していても全く読みにくさを感じさせないアラルコンの構成力は見事。 

 前作以上に不条理的な傾向が強い気がした。イヨネスコやらベケットやらの名前が出てくるから意図的かもしれない。どの人物も自分だけでなく他人の人生に縛られながら、そして時にはそれを自ら引き受けながら、人生の舞台の上で自身の生を求めてもがき続けてその大きな運命に流されていく。自分の人生と他人の人生が複雑に絡まり合いゆく中で、自分の小さな決断や諦念が途方も無く巨大な運命をそれと分からぬままに前進させてゆくどうしようもなさが辛い。読みながら数多くの「もし…だったら」という選ばれた選択肢とは別の選択肢が去来し続ける。もしネルソンが遠ざかる彼女を追っていたら、彼がロヘリオの役を演じなければ、ヘンリーがロヘリオを演劇に誘わなければ……しかし、別の選択肢を想起させつつもストーリーは無慈悲に進んでいく。友人の死や芸術への失望、恋人との破局……喪失感の中で望んでいた人生を歩むことができない切実な苦しみに胸がつまる。

 本作は基本的には現在の「僕」が証言を集めながら過去に迫っていくのがベースになっている。つまり、 ネルソンのみならず様々な人物に対して他者からの証言を軸にしながら過去を物語っていく。いわゆる「不在の話」にも通じる手法。この手法を取ることによって、否応無く他者の視線に向き合わせれることになる。 自己と他者との間での理解の非対称性やすれ違い、一人の人間が他者によってどう認識されているかというアイデンティティの揺らぎが浮き彫りにされる。他者からの視点を軸にした、時間的な距離を感じさせる懐古的なまざなしで物語が進んでいくため、前作ほどエピソードのその場の感情を瑞々しく描ききれてはいないかもしれない。しかし、イクスタがネルソンと恋に落ちる場面などその印象は随所に現れている。

 他者の視線からエピソードを構成するスタイルは、必ずしも自分が思っていたような振る舞いをしてくれない他者との非対称性を浮き彫りにして、時には非情とも無責任とも思えるような不一致を見せる。彼らの救われない思いと遣る瀬無い気持ちからくる悲哀は作品全体を通して何度も私の胸を突いてきた。

 本作は「演劇」を扱ったものである。しかし、作中では舞台の上での演技だけでなく、日常生活の中で人間が自身あるいは他者を人生の必要な役に仕立てあげようとするために行う「演技」もまた含んでいる。演劇的なモチーフを利用して人々の人生を舞台にみたてながら、その不条理とその中でもがく人々の切実な心情を描き切るアラルコンはすごい。名作です。

 

雑記: 他者の「語り」を奪うことの暴力性

 物語のラスト、マイクとテープレコーダーを持ち込んで獄中のネルソン本人にインタビューを行うつもりでいた「僕」に対して彼は次のように語る。

「 誰が奪ってきたのか、誰が奪われてきたのか、ここではっきりさせておこうじゃないか 」

 冒頭から仄めかされてきたネルソンを襲った運命の謎を追いかけていった先に、この言葉を結末として置くところが政治小説家としてのアラルコンの妙であると思う。ここで、明確な輪郭を与えられることになるのは、語りを奪うことの暴力性だ。しかし、それは正式な調査も行わずに彼を逮捕した警察やネルソンに語らせること無く決着がつけられた不公平な裁判など公権力によるものだけを指すのではない。

 作中で「僕」は雑誌記者として関係者のインタビューを集め、ネルソンの日記などの物証も参考にしながら、ネルソンが辿った軌跡を再構成することで、本当の「ネルソン像」を形成しようと努めている。しかし、それは結局のところ「僕」の認識を通して表象された「ネルソン像」でしかない。ネルソンは「僕」に次のように語る。

「だとしたら、僕がここにいる間に、外にいて僕の物語を語る資格があると信じこんだ人間に対して、僕は何をすると思う?もし僕が暗い通りで男を殺すことができる人間だったとしたら?」

「僕」はネルソンのこの態度を刑務所内で学んだ相手を脅すような演技であると考えるも、しかし少しの当惑を見せる。読んでいた私も一瞬「もしかして…?」と思った。というのも、p.158ではパタラルガとネルソンが残した次のような発言が残されているからだ。

「ネルソンには、何を選んだっていいと言ったよ。街に戻って彼女を取り戻そうと戦ってもいい。勝つかもしれないし負けるかもしれないが、どちらも名誉ある結果だと」

「それでネルソンは何と?」

「自分は闘士じゃないし、闘士だったこともない。だから怖いと。そんなわけがあるかって俺は言った。もちろんお前は闘士だ。それ以上だ。だってお前は人殺しだろう?毎晩舞台で俺を殺してるじゃないか?」

 それを聞くとネルソンは笑った。パタラルガも笑った。

「その通りですよ」とネルソンは言った。「僕は殺し屋だ。みんな気をつけろ。用心した方がいい」

  このあとのネルソンの「きみは平気さ」という発言を見ると「僕」への脅しは演技だったと思われるが、ここで演技と現実あるいは虚と実の間の境界が一瞬揺らぐ。語られてきたネルソンが「僕」によって作り上げられた「ネルソン像」に過ぎないことが浮き彫りになる。

 また、ネルソンがもしハイネのような人間、つまりはネルソンが仄めかしたようなことをしでかす人間だった場合、僕は果たして彼についての物語を書こうと思うだろうか。「僕」はネルソンの人間性をあてにして、「彼なら大丈夫だろう」と高を括って話を聞きに行ったのではないだろうか。つまり、彼であればその「語り」を奪ってしまってもいいだろうと……

 おそらく、これは小説家としてのアラルコン自身の経験が反映されているのではないだろうか。小説家は自身では声を挙げられない人々の声を代弁することができる。しかし、それは一方では他者から「語り」を奪う行為でもあるために種の暴力性をはらむ。彼らの語りを横取りし、彼らをゼロと化すことによって二重の沈黙を強いる危険さえある。そして、小説家がどれだけ「声を奪われた者たち」の声を代弁しようとしても、それはあくまでも表象に過ぎない。アラルコンはここで、雑誌記者として問題の外から観察する「僕」の存在を通して無意識的に行われる「語り」の搾取を批判し、また「分かったつもりにさせる」ポートレートで実像を曇らせる一部のジャーナリズムを批判している。

 その後、アラルコンはネルソンとの最後の会話を通して「僕」を渦中に引きずり込むことによって外部の観察者として存在することを否定するとともに、「僕」に当事者性を与えている。傍観者の気分でいることは、当事者として事件に関わっていくよりも安全である。ヘンリーとロヘリオが 獄中で蹴り殺される囚人を眺めていた時のように。物語は、サークルの外から部外者として物語を紡ごうとしていた「僕」に当事者としてもっと別の聞き取るべき声を探させることにより、「僕」をサークルの渦中に取り込む場面で終わる。

 

夜、僕らは輪になって歩く (新潮クレスト・ブックス)

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ロスト・シティ・レディオ (新潮クレスト・ブックス)

ロスト・シティ・レディオ (新潮クレスト・ブックス)